幕府などについて勉強した

勉強をしました。幕府はこれを処罰するため、長州征討を開始しました。このとき、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4カ国は、これを攘夷派に打撃をあたえる好機として、下関へ4カ国の連合艦隊をおくり、砲台を占領しました(四国艦隊下関砲撃事件)。内外との交戦に敗れた長州藩は、攘夷路線を捨てざるを得なくなりました。また薩英戦争を戦った薩摩藩も、現状での攘夷が無理であることを痛感し、かえってイギリスに接近し、軍備の強化をはかるようになりました。攘夷運動がつまずくと、薩長両藩はしだいに倒幕へと傾いていきました。1866年初め、長州藩高杉晋作桂小五郎薩摩藩西郷隆盛大久保利通は、土佐藩出身の坂本龍馬の仲介で、薩長連合の密約を結び、反幕府の態度をかためました。この情勢を見抜けなかった幕府はこの年ふたたび、長州征討を試みました。しかし薩摩藩は従わず、幕府は将軍徳川家茂の急死を理由に停戦し、幕府の権威は失われました。この間に世情は混乱し、世直しをとなえる百姓一揆や打ちこわしも各地でおこっていました。1867年の夏には、東海・近畿に「ええじゃないか」の乱舞がおこりました。薩長倒幕派は、武力倒幕を決意しました。